「自己肯定感を上げよう」という発想が、あなたを苦しめている
「自己肯定感を高めましょう」
この言葉は、今の時代、あまりにも当たり前のように語られています。
書店に並ぶ本、SNSの投稿、教育の現場──あらゆる場所で「自分を認めよう」「自信を持とう」というメッセージが響き渡っています。
一見すると、前向きで素晴らしい価値観のように思えます。しかし、多くの人がこの言葉に励まされるどころか、むしろ“苦しみ”を深めている現実があります。
なぜ、自己肯定感を上げようと努力するほど、心が疲弊していくのでしょうか。
それは、この「自己肯定感」という概念が、ある“構造的な罠”を内包しているからです。
私たちはいったい、何を“上げよう”としているのでしょうか?
「自己肯定感」という概念の構造
自己肯定感とは、本来「自分を否定しない感覚」ではなく、「自分という存在をただ受け止めている状態」を指します。
ところが、現代社会ではこの意味が大きくすり替えられています。
“上げるもの”としての自己肯定感は、常に「比較」と「達成」を前提としています。
「今の自分はダメだ」から始まり、「もっと肯定できる自分」へと向かう。
つまり、“自己肯定感を上げよう”という発想そのものが、すでに自己否定の上に立っているのです。
この構造の中では、どれだけ努力しても心が満たされることはありません。
なぜなら、「今の自分では不十分」という前提が、常に意識の奥で繰り返されるからです。
“上げようとする”こと自体が、「今の自分をまだ肯定できていない」という矛盾を生み出しています。
人間の心理と「承認の飢え」
人は誰しも、他者からの承認を通して「自分という存在」を確認してきました。
幼少期には親の笑顔、学生時代には成績や友人関係、社会に出れば評価や報酬──私たちはずっと、“誰かのまなざし”によって自分の存在を形づくってきたのです。
そのため、「自己肯定感を高めよう」という言葉は、一見“自分のため”のようでありながら、実際には“他者の承認を内面化した構造”を強化してしまうことがあります。
自分を肯定するとは、「誰かに認められた自分を肯定すること」ではないはずです。
けれど、多くの人が“他人の基準を内側に取り込んだまま”、「自己」を評価しようとしています。
この状態では、どれだけポジティブな言葉をかけても、どれだけ自己啓発を重ねても、心の根底には「誰かに認められなければ意味がない」という渇きが残ります。
“自己肯定感の向上”が、いつの間にか“他者承認の延長線上”に置き換えられてしまうのです。
「肯定しよう」とする行為の矛盾
興味深いのは、「肯定しよう」という意志の中に、すでに「否定」が前提にあるという点です。
たとえば、「もっとリラックスしよう」と考えた瞬間、人は“リラックスできていない自分”を意識します。
「怒らないようにしよう」と思えば、“怒りを持つ自分”を見つけます。
同じように、「自分を肯定しよう」とするほど、“今の自分を否定している感覚”が強まるのです。
この構造を抜け出す鍵は、「上げる」ことでも「改善する」ことでもありません。
ただ、気づくこと──「自分を肯定しようとしている自分」に、そっと気づくこと。
気づいた瞬間、人は一時的に「評価」や「比較」という枠組みから外れます。
そこには、「高い・低い」「良い・悪い」という判断を超えた、静かな自己の存在が残ります。
“肯定”を超えた地点で生きる
自己肯定感という概念は、心理学的な価値を持ちながらも、人生の本質を語るには不完全です。
なぜなら、“自己を肯定する”という行為の背後には、常に「自己という分離した存在」が前提にあるからです。
しかし、私たちが本当に求めているのは、“肯定できる私”ではなく、“肯定も否定も超えた私”です。
それは、「どんな自分であっても、ただ生きている」という実感。
頑張っていないときの自分、弱っているときの自分、何もできない自分──それらを“正す”のではなく、“在るものとして見る”こと。
「自己肯定感を上げる」という競技から降りたとき、人は初めて“生”の静けさに触れます。
そこにあるのは、“成長”ではなく“還る”という感覚です。
自分を良くしようとすることをやめたとき、人はようやく「本当の自己」と出会うのかもしれません。
最後に
自己肯定感という言葉は、私たちを励ますように見えて、しばしば新しい「自己否定の構造」を生み出します。
「上げよう」とする意識の裏には、「今の自分はまだ足りない」という静かな前提が潜んでいるのです。
本当の意味での“自己との和解”とは、肯定でも否定でもなく、「ただ受け入れる」という中立の地点にあります。
そこでは、「良い自分」も「悪い自分」も消え、ただ“在る”という確かな生命の感覚だけが残る。
私たちは、自己肯定感を上げる必要など、最初からなかったのかもしれません。
ただ、自分という存在を「評価すること」から、静かに降りるだけでいいのです。
